はこがい。

ハリボー大人買いしたい。

心尽しの手紙

まあ、いかんせん、なんだかんだで、会ったことも話したこともない人と延々メールやメッセージやチャットと呼ばれるような電子上でのやり取りを続けていることがある。1人あたり1日2往復、それが2週間とか。(断っておくが「ネットにつながる携帯があればOK」的なアレではない。)変な話だが、これをやるようになって初めて、SNS恋愛を成就させた人の気持ちを理解した。よく考えれば昔から文通という素敵な恋の有り様があったのだし、千年時を遡れば顔も知らないない相手からの恋文が普通だったわけだから、SNSを起点とした恋愛が起こることなんて別段不思議でもなんでもないのだが。とはいえ、会ったことも話したこともない人がある日突然自分にとってとても大事な人になっていることに気付いた時というのは、なかなかに衝撃的な一瞬であった。

 

やり取りを続けていてうまく波長が会うと、なんだか自然と話が盛り上がったりする。「今日は雨だし寒いから、気をつけてくださいね」「ありがとう、あなたも」みたいな言葉が画面に並んだとき、あ、つながったな、と思う。事務的なやり取りやテンプレが続いて自分がただの機械のような気がしてきた頃、ふっと立ち現れる人間の柔らかい匂い。この人は雨の中を帰るのだ。傘をさして、つま先を濡らして、白い息を吐きながら。私も雨の中を帰るのだ。ポケットに片手を突っ込み、雨に烟る電灯を頼みに、暗い道をとぼとぼと。それをこの人は知っている。知っている。あなたも私も、指先を冷やしながら帰る。たったそれだけのことを、嬉しいなぁ、と、思う。細い道を抜けて角を曲がったら家の灯りが見えたときのような気分になる。そのうちカレーの匂いがしてくるんじゃないかな、ちがうかな、今日はアジの開きかな、どっちでもいいや、あったかいご飯が待っている。

 

しかし時として、やっと画面の文字に温度が出てきた相手に、何かと寂しい話をしなくてはならない場面に遭遇する。そして、その「話」は往々にしてとても無機質な言葉で私の手元に降ってくる。別に私は伝えられる側ではないのに「なんでそういう言い方するの」と思ってしまう。そして思ってしまった後に「あれ、なんで私怒ってるの」と思う。ふと我に返って、自分が大事にしてきたものが無かったことになってしまうことや、そのままの言葉が大事なあの人にとってはきっと鈍刀で腕を引かれるようなものであろうことや、とにかく色んなことに対していちいち沸沸としている自分に気がつく。実際それを言われた相手が傷つくかどうかなんて確認していないけれど、それでも落ちてきた硬質で無慈悲な言葉に対するなんとも言えないもやもやとした重たい感情が、みぞおちのあたりまで、ずうん、と低い音を立てて沈んでいく。沈んでいく暗い何かを無視して、言葉を尽くす。翻訳する。どうか幸せでありますように。どうか前を向いて歩けますように。浮上せよ、浮上せよ。

 

そうやって心を尽くすことは時間の無駄なんだろうか。クリップがハート型になっていたり、デスクに貼られた付箋にニコちゃんマークが書いてあったり、そんな小さな細工が人の心を掬い上げることもあると信じることは、暇人や怠け者や贅沢者がすることなんだろうか。掬われた心がどこに向かって泳いでいくかはわからないけれど、それでもどこか価値のあることだと信じちゃいけないのだろうか。心を、柔らかな両の手のひらでそっと水の中から掬われるような思いをしたことがあるのは私だけなのだろうか。ときどき、そんなことを考えてとても悲しくなる。

 

たぶん、心を尽くすことは効率とは対極のところにある。言葉を尽くし思いを尽くし時間を尽くし、あなたのことを考える。それはとても効率が悪いことだ。伝わるかどうかもわからないことをずっと考え続ける。考え続けて、世界中の言葉の千兆分の1が入っているかどうかすら定かではない引き出しから、ひとつひとつ選んで、キーを叩く。綴る。画面の文字は無機質だから、言葉の選び方がものを言う。そしてその作業は時にとてもとてもしんどい。それでもそうやって言葉を選ぶのは、それが、私があなたに手渡せる唯一のものだからだ。私は言葉でしか、ありがとうとか、うれしいとか、頑張ってねとか、元気でね、とか、伝えられないのだ。

 

他人に愛を手渡すためにはまずは自分が満たされていなければいけない。自分が満たされていないときに愛を手渡していると自分の心がどんどん削られていってしまう。消耗してしまう。グラスの中身と一緒だ。あふれた分はお裾分けできるが、もとが少なければ分けるだけ自分の分が減っていく。そして悲しいかな、心はワインではない。わけあって一緒に幸せになれるものではないのだ。

しかしそんなとき、自分の心を守ろうとするとだいたいうまくいかなくなる。何がうまくいかないって、コミュニケーションがうまくいかない。言いたいことが伝わらない。そのうち、ただの報連相マシーンになる。ひどくなると報連相すらできなくなる。それは確かに、自分の心を守るための正しい反応なんだけれど、でもそんなのはあの人が寂しすぎるから、結果としてどんなに陳腐な言葉の羅列になったとしても私の言葉があなたの行く末を少しでも照らしていたら嬉しいと願いながら、手紙を書いている。顔を見たことも声を聞いたこともないあなたに言葉を送る時だけは、私の心を分けている。分けていいと思っている。私の手元には何も残らないかもしれないけれど、それでも。

 

アンパンマンが泣く子に顔を一口分ける時の気持ちは、多分こんな気持ちだ。

自己満足なのは、わかってはいる。