はこがい。

ハリボー大人買いしたい。

アクロバット飛行

先日、残業していたら唐突に、「言葉の選び方が上手いよね」と褒められた。

 

文系?と聞かれたので国文卒なんですうふふ、と返してはみたが、別に国文卒即ち言葉選びが上手というわけではない。文系が皆日本語をうまく、美しく操れるなら、日本は世界に誇る文芸大国だ。村上春樹はうじゃうじゃいただろうし、編集者はコンビニ店員ぐらいありふれた職業だったろうし、主述が混乱し目的語すら不明確な電子メールに日々うんざりすることもなかっただろう。

第一、私の専門は万葉集だ。もっと言うと、万葉集の中のたった一首を初出から追いかけてどの様に解釈が変わりどの様に社会に受け入れられていたかを調べていたので、専門は言葉そのものというよりもナラティブ分析なのだ。文系で、国文卒だったら、言葉の選び方が上手い、はナンセンス。その逆も然り。言葉の選び方が上手かったらきっとその人は文系、だなんて、そのうち論文バカの理系研究者たちが暴動を起こす。

とはいうものの、素直に嬉しかった。おそらくその人が読んだのは、一枚のパワポの中のたった100字にも満たないメッセージラインである。その100字に何か感ずるところがあったというのは、書き手としてはとてもとても嬉しい。言葉と文章を褒められるのが、もしかしたらこの世で一番嬉しいかもしれない。たった一語だろうが1万字だろうが関係ない。だって、私の言葉は、一言一句私の分身なのだ。大量のインプットと大量のアウトプット、意識と訓練。私が過去、積み上げてきたもの踏みしめてきたもの踏み越えてきたもの飲み込んできたもの吐き出してきたもの与えられてきたもの捨ててきたものたちの、すべて。それを認められたら、存在を全肯定されたようなものである。

 

そんなわけで大層ご機嫌で帰途についた華金の夜だった。そして、そういえばここ一年、文章を書こうとして文章を書く、ということをしていなかったことを思い出した。

少し前までは仕事としてなにかしら書く機会が多かった。こういうエッセイ調の散文も書いていたし、仕事柄ドキュメンテーションスキルも求められたし。その世界において言葉は必要不可欠で、何より高い性能を求められた。空軍にとっての戦闘機みたいなものだ。それがなければ、それたり得ない。バーチカルロールしながらカラースモークを噴いても許されるあの戦場で、私はきっとものすごく生き生きしていたんだろうと思う。そんな飛行スタイルを長らく自粛して安全飛行に徹していたせいで、すっかり忘れていた。そうだ、磨かなきゃ、私の愛用機はあれだ。スモークが出せる。私はアクロバット飛行の12Gにも耐えられる。私の唯一の武器は、書くことだ。

 

 

 

 

そんなことを思いながら電車の中で各方面に残るテキストを読み返して、なんだか身を削って書いているなぁ、などと思った。今のわたしにこんなに削れる身があるだろうか。社会を泳ぐことに最適化された身体と思考。カラースモークを吐くための機構はあるのに肝心の色がない。

ああ、これは補充しなければ。インプットを増やさないと、枯れてしまう。さぁ何から手を付けよう。