はこがい。

ハリボー大人買いしたい。

生存戦略

新しい場所や環境を選ぶとき、適応できるかどうか見極めるのに大事な判断基準は、これまでの自分の成果よりも、自分がこれまで身に付け運用してきた習慣や思考の癖だ。何をやるしても、アウトプットには再現性がないと意味がない。

 

私はもともと、根暗コミュ障のくせに地味に寂しがりというなかなか面倒くさいタイプなのだけれど(そのせいか人間関係は強烈に狭く深い)なんでだか前職で妙なところに入ってしまったせいで、「初めまして」のコミュニケーションが抵抗なくできるように「矯正」された節がある。
これはたぶん一種の「習慣」なのだ。習慣というのは反復練習で身につくものだ。たった一年半の間だが、私はひたすら反復していたのである。一日中、何百という「初めまして」を、毎日毎日繰り返しくりかえし。笑顔で話す、正対ではなく斜めに立つ、共通点を探す、素敵なところを見つける、褒める、オープンになる、エトセトラ。そんなTipsの詰め合わせはたぶん、今でもしっかり癖として残っている。

 

小学3年生〜大学3年生まで実家にテレビがなかった。そのせいで、同級生と流行りのドラマの話も音楽の話もできなかった。毎度毎度「ねえねえ昨日のドラマ…あ、ごめん」のやり取りを繰り返し、その度に「うちテレビないんだよね〜知ってるよね〜笑」と返しているうち、クラスで「テレビがなくて、Jポップが分からなくて、一緒にカラオケに行くと『津軽海峡・冬景色』を熱唱するキャラ」を確立していた。このへんで「他人と違うこと」でドヤ顔できるメンタリティは身についた気がする。

  

あとは、良くも悪くも、私には苦手なこと嫌いなこと不快なことを徹底的に回避する癖がついている。言葉を選ばず言えば、いわゆる逃げ癖というやつ。

私は国語が好きで、学内偏差値が80を超えたり某模試で全国一桁位になったりとか、まぁ要するに大得意だった。一方で数学はというと、そもそも算数(計算)ができなくて3の3乗はいつまでも9だったし某模試で0点を取ったこともあったし、要するに大の苦手だった。嫌いかと言われればそうでもないのだが(知らない分からないは良いスパイスだ)、好き嫌いと苦手意識は別物である。わたしの数学の参考書は、いつまでたってもきれいで、結局最後まできれいだった。そして私は私立大学の文学部に進学した。

  
中学受験の勉強を始めた小学校4年生の頃からずっと私には国語という強烈な強みがあった。だから、数学を頑張る(=マイナスを0にする)よりも、国語を極める(=10あるものを100にする)ことを選んできた。その方が少なくともその頃の私の「生存戦略」としては正しかったのだ。自分のメンタルを守り、かつ、明確な武器を持って、自分が生き生き気持ちよく戦えるところで戦う。私ができないところは誰かに任せておけば良い。実際にそれでここまで生き抜いてきてしまって、未だ矯正されていない。矯正される気配もない。嫌なことは、徹底的に後回しにする。やらずに済む方法を考える。逆に、得意なこと好きなこと楽しいことはものすごい勢いでやる。ずっとやる。おそらく生涯をかけて。

 

10歳の冬から、私の生存戦略「マイナスを0以上にするのは諦めて、10あるものを100にしてそれで戦う」だ。

前職で発生したの「矯正」は、ほぼ0というかむしろマイナスレベルだったコミュ力を無理やり身につけたマイナス→プラスの動きではなく、すでに50ぐらいあった「寂しがり」という性質が100ぐらいに跳ね上がって、コミュニケーションという手段でもって「誰かといる」という状態を作り出すようになっただけなのだと思う。私のコミュニケーション能力の本質はたぶん「人が好き」でも「おしゃべりが好き」でもない。「空白を埋めたい」なのだ。そしてできれば、自分にとって大事で大事で仕方ないもので。そうすれば、私はもっと戦えるようになる。

 

 下書きのまま放置していたらどこに落とすつもりだったか忘れてしまったので、そのまま公開。