はこがい。

ハリボー大人買いしたい。

やっぱり水色が好き

初夢とはいつ見る夢を指すのだろうか。大晦日の夜、元旦の朝に見る夢のことなのか。それとも元旦の夜、2日の朝に見る夢のことをいうのか。26年間はっきりさせずに暮らしてきたが、江戸の頃からすでに諸説あったらしいから、今更はっきりさせる必要もないだろう。お正月3が日のどこかで見れば、それが初夢だ。そうしよう。

そういうわけで、2018年の初夢は元旦の夜に見た。よりにもよって元旦の夜に見たのである。普段から夢を見ることがほとんどなく、これまでの人生の中で「初夢」に相当するものを見たことがなかった。そして夢を見るときは決まって、長くて、ディティールが細かくて、日常生活の中で起きそうで起きない、ギリギリの物語を見る。

今年の初夢に出てきたのは、富士でも鷹でもなすびでもなく、作家だった。

 

新進気鋭の若手作家が、私をモデルに小説を書くという。座り込んだ私の左後ろにたった彼にどんな話がいいかと尋ねられ、私はしばし考えた。目の前にあったパソコンの画面にはやたら明るいスクリーンセーバーが開いていて、クリーム色を背景に、橙や薄赤や薄緑色の丸や楕円が大きくなったり小さくなったり、伸びたり縮んだりしながら、ゆるゆると花のような形をなしてはパッと離れ、を繰り返していた。頭の中に宇多田ヒカルの曲がいくつか、同時に流れていた。Be My Lastだったような気もするし、Goodbye Happinessだったような気もする。困難が次々とやってくる話、と一瞬思ったがやめた。私は左に目をやって、「救いのある話がいい」と答えた。彼の顔は見なかった。別に私は、迫り来る敵をバッタバッタとなぎ倒して進むヒーローになりたいわけではない。波乱万丈の物語は読むぶんには面白いが、主人公は辛い。痛い。苦しい。

しばらくして、小説が書き上がった。発売開始のその日、エスカレーターの手すりやビルの天井からつりさがる垂れ幕、電車の中吊りなどいたるところに、その新刊の広告が出ていた。タイトルは『やっぱり水色が好き』。やっぱり水色が好き。やっぱり水色が好き。その言葉が白地に黒いゴシック体で印字された右の手すりを撫でながら、私はエスカレーターに乗っていた。快晴の朝、駅の改札に向かうところだった。気持ちの良い朝であった。電車に乗り込むとき、私は例の作家ともう一人の女性と一緒だった。緩やかにうねる茶色い長い髪を日に透かした背の低い彼女もまた、彼の作品のモデルであった。彼女は白いスカートを履いていた。

「すぐ買って読むね」と私は彼に声をかけた。背が高く細身の彼は、白いシャツにグレーのキャスケットを被っていた。「慌てなくていいよ」と彼は言った。そして、でも早く読みたいのだと笑って言う私に彼はキスをしたのである。その感触が今も生々しく残っている。柔らかくて、温かかった。心臓の少し下、みぞおちの少し上のあたりがふわっと暖かくなって、全身を何か柔らかいものでくるまれたような気分だった。たったその一瞬、懐かしい気持ちになった。彼の明るい茶色の目は優しかった。ああ、私は彼のことを知っている。彼は私の引き出しの住人だ。久しぶり。直感だった。あの一瞬、私は私の内側に戻ったのだ。

私は電車を降りた。降りた駅もまた明るく、コンクリートの柱と白く塗られた梁の間から燦々と日が降り注いでいた。作家の彼とモデルの彼女は、どうやらさっき電車に乗ったままどこかへ行ってっしまったらしい。ここから先は私一人である。彼は慌てなくていいと言っていたが、私はまっすぐ本屋へと向かった。店頭にも大きく『水色』のポスターが貼ってあった。棚に並んだ水色の背表紙を手にとって、パラパラとめくりながら講堂に向かった。水色は短編集だった。『やっぱり水色が好き』は収録されていなかった。

 

小さい頃の夢は、作家だった。

今私は、『やっぱり水色が好き』が読みたくて仕方がないのである。