はこがい。

ハリボー大人買いしたい。

千代子の秋(2019)

 

 

ふと金木犀の匂いがして、あたりを見回したが見当たらなかった。

去年の夏以来、千代子は一軒の古書店に入り浸っていた。千代子が閉店後のレジカウンターを飲み屋がわりにしているのを気に留めず、せっせと締め処理にいそしむ癖っ毛丸眼鏡の店員は公太郎といった。

 

「いいものを持ってこようか」

シャンと音を立ててキャッシュドロワーを閉め、一通りの作業を終えたふうの公太郎がいたずらっぽく声を掛けた。千代子が何も言わずにいると、公太郎は千代子の手からひょいとワンカップを取り上げて、店の奥へと引っ込んだ。元はと言えば、これは公太郎が飲んでいたワンカップであった。

 

鼻歌まじりに戻ってきた公太郎は、右手に一振りの金木犀の枝を握っていた。もう片方の手の中では例のワンカップ酒の空き瓶に注がれた水がちゃぷちゃぷと揺れている。

酔っ払い鶏ならぬ酔っ払い金木犀だよ、と笑う彼の癖毛が、即席花瓶に枝をいける動きに合わせてふかふかと揺れていた。

アクロバット飛行

先日、残業していたら唐突に、「言葉の選び方が上手いよね」と褒められた。

 

文系?と聞かれたので国文卒なんですうふふ、と返してはみたが、別に国文卒即ち言葉選びが上手というわけではない。文系が皆日本語をうまく、美しく操れるなら、日本は世界に誇る文芸大国だ。村上春樹はうじゃうじゃいただろうし、編集者はコンビニ店員ぐらいありふれた職業だったろうし、主述が混乱し目的語すら不明確な電子メールに日々うんざりすることもなかっただろう。

第一、私の専門は万葉集だ。もっと言うと、万葉集の中のたった一首を初出から追いかけてどの様に解釈が変わりどの様に社会に受け入れられていたかを調べていたので、専門は言葉そのものというよりもナラティブ分析なのだ。文系で、国文卒だったら、言葉の選び方が上手い、はナンセンス。その逆も然り。言葉の選び方が上手かったらきっとその人は文系、だなんて、そのうち論文バカの理系研究者たちが暴動を起こす。

とはいうものの、素直に嬉しかった。おそらくその人が読んだのは、一枚のパワポの中のたった100字にも満たないメッセージラインである。その100字に何か感ずるところがあったというのは、書き手としてはとてもとても嬉しい。言葉と文章を褒められるのが、もしかしたらこの世で一番嬉しいかもしれない。たった一語だろうが1万字だろうが関係ない。だって、私の言葉は、一言一句私の分身なのだ。大量のインプットと大量のアウトプット、意識と訓練。私が過去、積み上げてきたもの踏みしめてきたもの踏み越えてきたもの飲み込んできたもの吐き出してきたもの与えられてきたもの捨ててきたものたちの、すべて。それを認められたら、存在を全肯定されたようなものである。

 

そんなわけで大層ご機嫌で帰途についた華金の夜だった。そして、そういえばここ一年、文章を書こうとして文章を書く、ということをしていなかったことを思い出した。

少し前までは仕事としてなにかしら書く機会が多かった。こういうエッセイ調の散文も書いていたし、仕事柄ドキュメンテーションスキルも求められたし。その世界において言葉は必要不可欠で、何より高い性能を求められた。空軍にとっての戦闘機みたいなものだ。それがなければ、それたり得ない。バーチカルロールしながらカラースモークを噴いても許されるあの戦場で、私はきっとものすごく生き生きしていたんだろうと思う。そんな飛行スタイルを長らく自粛して安全飛行に徹していたせいで、すっかり忘れていた。そうだ、磨かなきゃ、私の愛用機はあれだ。スモークが出せる。私はアクロバット飛行の12Gにも耐えられる。私の唯一の武器は、書くことだ。

 

 

 

 

そんなことを思いながら電車の中で各方面に残るテキストを読み返して、なんだか身を削って書いているなぁ、などと思った。今のわたしにこんなに削れる身があるだろうか。社会を泳ぐことに最適化された身体と思考。カラースモークを吐くための機構はあるのに肝心の色がない。

ああ、これは補充しなければ。インプットを増やさないと、枯れてしまう。さぁ何から手を付けよう。

おふとん抜け殻危機

気付けば交際7年目に突入していた。

山手線のはるか外側、築26年25平米1K月6万円の一室から始まった私たちは、相変わらず山手線のはるか外側だけれども、築23年42平米1LDK月10万円と以前より少々ランクアップした部屋で暮らしている。彼よりも年収が低いのが許せなくて仕事に邁進していた私の年収は7年で1.5倍ぐらいになったし(彼の年収も上がっているので抜かせてはいない)、貯金も増えた。けれど世にいうパワーカップルの端くれを標榜することにはいまだ抵抗がある。

出会った時と比べて、私の体重は8kg、彼の体重は5kg増えた。私の身長は1.5cm伸びた。彼の身長の変化については情報がない。

付き合い始めた頃、誕生日とクリスマスにはプレゼントを送り合っていたが、いつのまにか「ちょっといいディナー」を食べに行くことで完結するようになった。でもバレンタインとホワイトデーにはいまだに必ずお菓子を用意している。

出張や帰省で遠くに行くと、彼は必ずお土産を買ってくる。諸事情で手ぶら帰宅となるときは、必ず謝罪のLINEが入る。かくいう私はお土産を買い忘れる常習犯である。というか、お土産を買わなければという意識がない。というか、そもそもお土産を買うレベルの遠出をしない。

 

変わったことは多いが、変わらないことも多い。

 

一緒に暮らし始めたときから、彼が起きたあとの寝床の汚さに辟易していた。今も日々辟易しているし、ついさっきも辟易していたところだ。

あまりの汚さに耐えかねて一度クレームを申し立てたところ、先方は大変不機嫌そうな顔をされた。以来私は、どうにかして波風立てずに寝床を分けられないかとか、別れた方がいいのかな、いやいやそれほどまでじゃないなとか、いっそ私に地方配属の辞令がおりないかなとか、色んな妄想を繰り広げながら住宅情報サイトを回遊するようになった。

 

ここまでかなり悪様に書いてきたが、ここでいう「寝床の汚さ」は「よごれ」の意味ではない。臭いとか、布団以外のものが散らかっているとかでもない。

掛け布団が、ありえない捩れ方で、ぐちゃぐちゃになっている。ただそれだけである。

 

私自身、起床後のベッドメイクをするタイプではない。実家にいた頃は父からよく小言をもらっていた。そんな私がイライラし続けたのはなぜか。

結論、「夜、私がスムーズに布団に入れない」のが理由である。

 

我が家のベッドは壁側に寄っている。

早く起きる私が部屋側、遅い彼が壁側がそれぞれの定位置だ。朝起きるとき、私は布団の部屋側・頭側の角を1/4ほどはねて寝床を抜ける。一方彼は、なぜか、壁側の一辺を盛大に(しかも頭側を思いっきり)はねて立ち上がる。個人的にはなぜベッドの上で立ち上がるのが理解が及ばないが、結果、布団の上半分だけが捩れて半回転するに至っていた。

我が家のふたりはいずれもベッドメイクの習慣がないので、どちらかといえば早く就寝することが多い私が寝室に行くと、捻れて捩れてそのままの哀れなお布団がベッドの上で倒れているのである。

そんなとき、終電続きで疲労のお化けに取り憑かれた私は妙な徒労感と焦燥感と煩悶感に苛まれる。なぜこんなに疲れていて1秒でも早く寝たいのに、肝心の寝床がnot readyなのか。可哀想なお布団、お前をこんなふうにしたのは誰。反対側に行ってしまった端っこを引っ張り出してむんずとつかみ、舞い立つ埃を尻目に大きく振りあげ掛け直す。

私は、このワンクッションが必要になることに、どうしようもなく辟易していたのである。

 

それに気付いて、ホッとした自分がいる。寝る前に布団を整える手間にフラストレーションを感じているのであれば、その手間がなくなるような仕組みを考えれば良い。仕組みを憎んで人を憎まず、である。

千代子の夏(2018)

最後の一文に傍線を引いて主人公の心情を答えさせるためだけに書いた。なお、書いたのは2018年夏。若干リバイズ。

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 ーーあつい。 

思わず首の後ろに右手をやると、今度は手の甲がチリチリし始めた。剃り忘れた産毛が焦げるんじゃないかという気がしてその手の甲を頬に押し当てたが、ひんやりした感触にホッとしたのもつかの間、こんどは無防備になった首筋にジリジリと直射日光が照りつける。襟足がじんわりと汗で湿り始めるのを感じて、千代子はバッサリと髪を切ったおとついの自分を恨んだ。誰だ、夏はショートの方が涼しいなんて話を鵜呑みにしたのは。首が焼けるじゃないか。 

突き刺さる紫外線の痛みに耐えかねて顔を上げると、大学創設者の胸像が素知らぬ顔をして図書館の方を見つめていた。彼のやや薄い頭にも同じく太陽が照りつけていて、ほんの少し不憫に思う。春先に彼の周りに花を散らしていた桜の木はこの夏の猛暑でいささか元気がないようだ。去年は鬱陶しいほど繁っていた葉には張りがなく、胸像を覆うほどの日陰を作れずにいる。明治維新を生き抜いたこの創設者は、100年後の日本の夏がこんなに暑いことを予想しただろうか。予想できていたら、こんな炎天下に自分の像が晒されることを喜びはしないだろう。その前に、はげる前の姿で像にしてあげればよかったのに。

 聞くところによれば、今年の夏は災害級の暑さらしい。各地で最高気温の最高記録が更新され、まかり通る根性論のせいでいつまでもエアコンが設置されてこなかった小学校では、とうとう死人が出たらしい。空梅雨のままそそくさとどこかに消えた梅雨前線は、7月になって遠くの町に豪雨を降らせたという。氾濫する川、死者と行方不明者、終わらない片付け、炎天下、熱中症、近付く台風の予報。テレビもラジオもネットニュースも毎日同じことを繰り返している。しかし千代子は、暑さが和らいだら誰もなにも言わなくなるだろう、と思っていた。 そう思っている自分を知っていたし、知っている自分を認めてもいた。

 ーーあつい。 

うなじがジリジリと焦げていく。今の千代子にとっては、遠くの街のことよりもそのことの方がよっぽど真実であった。おとつい、床にできあがった子犬一匹分はあろうかという髪の山をスタイリストが笑いながら掃いていったことも、鏡の中の自分が見たこともないぐらい晴れ晴れとしていたことも。

小さな横断歩道を渡ると、ヘアサロンがあった。ピカピカに磨かれたガラスに映る自分の姿を盗み見ると、やはりどこか楽しげにしている。
千代子にとって、髪を切ることは復讐であった。大学至近のサロンらしく学生価格を掲げた料金表を眺めながら、千代子は自分が髪を切ったその日のことを思い出していた。あのスタイリストさんは良かった、と思った。髪を切る理由を聞いてこなかった。 

腰近くまであったストレートロングの髪をフレンチショートにまで切ってしまったのだから、街を歩いているだけではだれも私だと気付かないだろう。髪に合わせて、服装も変えた。ジーパンとTシャツだけで歩くなんて、いつぶりだろうか。この街にいる人は、ジーパンを履く私のことを知らない。洗いざらしの白いTシャツ一枚で闊歩する私のことを知らない。ハイヒールをやめて、ストッキングも脱いで、つっかけサンダルをペタペタさせている私のことも。私だけがこの街のことを知っている。私だけが。誰も私のことを知らない。これはいい。面白い。楽しい。 

歩いているとすぐに通りにでた。飲食店が並んだ大通りは、テスト終わりの学生とサラリーマンでごった返していた。千代子は信号待ちの人いきれにむせ返って、立ち並ぶ古書店の店先にできた小さな日陰に身をよせた。信号が青になれば、皆思いおもいの方角に歩いていく。好きなようにお昼を食べて、昼寝したりなんかして、学校や仕事に戻るんだろう。ぶつぶつ文句をいいながらもなんだかんだで戻るんだろう。いや、もしかしたら戻らないのかもしれない。気分が乗らないとか、調子が悪いとか、大好きな漫画の新刊がでるからとか、適当な理由をつけて。

これは、なんという自由だろう。 

ふと振り返ると、本に積もった埃を払う店主と目があった。ぐりんぐりんと巻いた髪の上で、舞い上がった埃が薄明かりにキラキラと輝いている。彼の曇った眼鏡の奥がいたずらっぽく笑ったように見えて、千代子は、次の授業を休むことにした。
千代子にとって、これは反逆であった。 

売れない古本屋の主が歩道に出した鉢の中で、小さなひまわりのつぼみが膨らんでいた。

幸せについて本気出して考えてみた。

この記事も、また下書きのまま陽の目を見ない、なんてことになるんじゃないか。
でも書けるだけ書いておこう。なるべく正直に。さあ、2017年GWの始まりだ。

 

「男を見る目、ないよね」と言われる。
ほぼ初対面の人に「男見る目なさそう」と言われたこともある。
実際自分でも、ないと思う。

最近、交際相手から「最近幸せそうな顔をしてくれなくなった」と言われる。不安だ、とも言われる。そりゃそうだろう。前にどこが好きかと尋ねたら、割と真面目な回答の上から3つ目ぐらいで「幸せそうな顔するところ」と言った人だ。絶対的などこどこが好きというより、行動に対するレスポンスがちゃんと返ってくるから安心できる、という心理から発せられた言葉なのだろうと思っている。

では現実問題として、私は本当に幸せではないのだろうか。

相対的に幸せではあると思う。しかし、私の悩みのほぼ根源のような相手に純粋無垢な幸せ顔を向けられるかというと、そうではない。幸不幸の問題と悩みの有る無しの問題は別ものであり、悩みがあることを不幸だというのなら、私は不幸なのだろう。

「別れたいの?」と聞かれることもある。スパッと「そうだよ、別れたいよ」と言えたらどんなに楽だろう。どうせ形のある幸せには結びつかない関係だ。しかし悲しいことに、言えないのである。なぜなら、それは本質的な解決にはならないし、なにより本質的な問題はあなたではなく私にあるということを自覚しているからだ。

ねえ、あなたは私の鏡なんです。

 

 

大切な人が求める「みどり」になれないことは、私にとって最大の恐怖だ。それはこの歳になっても克服できていない両親との関係性に対する葛藤の裏返しでもある。両親は「みどりが幸せだったらなんでもいいよ」という。私はそれに対して「うん」という。両親は私を認めてくれていると頭ではわかっている一方、私自身は「みどり」になれなかった自分を未だに認めることができていない。自分を許せていない。仮に今からその「みどり」になれたとして、そこにカタルシスが生まれるのかどうかはわからない。でも、少なくとも、18歳の私は救われるのではないかと思うのである。初めて自分を心の底から「よしよし」できるんじゃないかというほのかに期待している。そしてそうなって初めて、次の一歩が踏み出せるんじゃないかとも。

そんなわけで今からでも、少しでも「みどり」に近づきたいと思う。ここまでくるともはや親が云々ではなく、私がどうなりたいかだけの問題かもしれない。価値観に影響はあるにせよ。さぁ、どんな私になれば、私は私を認めてあげられるのだろうか。

 

簡単に言うと「できる人」「すごい人」になりたい。何をもって「できる人」「すごい人」というかは一旦置いておいて、最終的には父のような母のような叔母のような祖父のような、周囲から尊敬され、頼られ、慕われる人間になりたい。そして、そんな人たちの成功の裏には並々ならぬ努力があることも私は知っている。私は社会人になってからの丸3年間を無駄にした。「私なんて」を言い訳に、ずっと何もしてこなかった。腐っていても何も始まらない、と決心したのがこの春。とにかく目の前のことに真剣になろうと決めた。ちゃんとやって、ちゃんと何かしらの成果を出せたら、少し自分を好きになれるんじゃないかと思っている。そんなことの積み重ねの先に、家族のような姿があればいいなと思っている。

家族に憧れる一方で、これまでの交際相手との関係は「あなたみたいになりたい」を原動力にスタートした。要するに皆「憧れの人」なのだ。現在の交際相手の場合も御多分に洩れず、そのきっかけは「憧れ」なのである。教養深く、自分の意見を持ち、明確な立場を持ち、プロフェッショナリティを持ち、自分の足で立っている。すくなくともそう見える。すくなくとも、私よりもよっぽどものを知っている。自分の意見を持っている。自分の足で立っている。ああ、あなたみたいになりたい。あなたは私の知らないことをたくさん知っている。図書館の隅っこの窓辺の席でうとうとしている時のような気分になる。心地よい。あなたが好き!

だが、図書館でうとうとするだけで何かが私の血肉になるわけではない。だんだんグズな自分が嫌になってくる。最初は憧れと恋心だけで一緒にいられても、そんなのは期間限定だ。本当はあなたの隣に立ちたいのだ。同じ方向を見つめ、互いに互いの背中を守り合うパートナーになりたいと思う。あなたの隣に立つためには、なんにせよ、あなたと同等かそれ以上の能力を持たなければならない。同じ武器である必要はない、違う武器でもいい。とにかく頑張らねば。力をつけなければ。そう思った矢先、こう言われるのだ。「そういう子は嫌い。」

就活の時もそうだった。どこ受けるの?と聞かれて「ANAの総合職」と答えて「CAは受けないの?CAの方が似合うよ」と言われたとき、私にとっては屈辱でしかなかった。あなたに憧れて「管理職になる!」と意味不明の宣言をした19歳の頃、あなたは私を応援してくれたじゃないか。CAか。そうか。そっちの方が似合うのか。通るわけないだろうと思いながら出したCAに私はなった。総合職は落ちた。そういう人間でしかないんだなぁと思って、悔しくて悔しくて悔しくて、仕方なかった。制服姿を見せてと言われた時、鏡の中の私は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

やっぱり、優しくて、可愛くて、細くて、小さくて、柔らかくて、抱きしめたら折れてしまいそうな人が好きですか。歌が上手くて料理が上手で、言葉も所作も美しく、丁寧で細やかな人が好きですか。それだけの女なんて私、大嫌いなんです。
賢いね、という言葉の裏に「俺のいうことが分かるなんてすごいね」なんて、そんな考えは含まれていませんか。まだまだだとは思うけれど、あなたの横に立つことは叶わぬ夢なのでしょうか。同じ目線で同じ夢を見ることはないのでしょうか。

 

そう思って、一通り、勝手に悲しくなった。勝手に落ち込んだ。勝手に、あなたのこと嫌いになりかけた。

 

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ここまで書いて、案の定この記事は日の目を見なかった。

そして、私はあの人を嫌いになった。2017年、七夕前夜のことである。私はあなたが嫌いだという「そういう子」になることを決めたのだ。自分の正義ができた瞬間だった。私はあの瞬間、三歳児になった。自分の幸せのために、自分の目の前にいる他者の人生を、自分の足でもって、自分の正しさで、踏みにじることを選んだ。そして世界は、私が三歳児に戻ることを許してくれた。多分それは、私がこれまで三歳児でいることを選んでこなかったからだ。誰かの、その人だけの正しさに散々滅多打ちにされてきた。その頃の私は、「そうだね」以外の回答が許されない世界に生きていた。「そうだね」は我が身を守るための殻だった。

攻撃は最大の防御である。私が私であるためには、時には「そうだね」を捨てる必要があった。これだけ言葉に親しんできたのに、私は自分の内側にあるものを言葉で表すことができなかった。それをしてこなかった。鬱屈した精神は歪んだ行動に現れるのだ。

「そうだね」を捨てた私は強かった。多分、あなたが大嫌いな私だったことだろう。

 

「そうだね」の捨て方を知ってしまった私はもう、あの頃に戻りたくても戻れなくなってしまった。思い出だけ持って行こう。今は等身大の私の前に、等身大の世界が広がっている。

やっぱり水色が好き

初夢とはいつ見る夢を指すのだろうか。大晦日の夜、元旦の朝に見る夢のことなのか。それとも元旦の夜、2日の朝に見る夢のことをいうのか。26年間はっきりさせずに暮らしてきたが、江戸の頃からすでに諸説あったらしいから、今更はっきりさせる必要もないだろう。お正月3が日のどこかで見れば、それが初夢だ。そうしよう。

そういうわけで、2018年の初夢は元旦の夜に見た。よりにもよって元旦の夜に見たのである。普段から夢を見ることがほとんどなく、これまでの人生の中で「初夢」に相当するものを見たことがなかった。そして夢を見るときは決まって、長くて、ディティールが細かくて、日常生活の中で起きそうで起きない、ギリギリの物語を見る。

今年の初夢に出てきたのは、富士でも鷹でもなすびでもなく、作家だった。

 

新進気鋭の若手作家が、私をモデルに小説を書くという。座り込んだ私の左後ろにたった彼にどんな話がいいかと尋ねられ、私はしばし考えた。目の前にあったパソコンの画面にはやたら明るいスクリーンセーバーが開いていて、クリーム色を背景に、橙や薄赤や薄緑色の丸や楕円が大きくなったり小さくなったり、伸びたり縮んだりしながら、ゆるゆると花のような形をなしてはパッと離れ、を繰り返していた。頭の中に宇多田ヒカルの曲がいくつか、同時に流れていた。Be My Lastだったような気もするし、Goodbye Happinessだったような気もする。困難が次々とやってくる話、と一瞬思ったがやめた。私は左に目をやって、「救いのある話がいい」と答えた。彼の顔は見なかった。別に私は、迫り来る敵をバッタバッタとなぎ倒して進むヒーローになりたいわけではない。波乱万丈の物語は読むぶんには面白いが、主人公は辛い。痛い。苦しい。

しばらくして、小説が書き上がった。発売開始のその日、エスカレーターの手すりやビルの天井からつりさがる垂れ幕、電車の中吊りなどいたるところに、その新刊の広告が出ていた。タイトルは『やっぱり水色が好き』。やっぱり水色が好き。やっぱり水色が好き。その言葉が白地に黒いゴシック体で印字された右の手すりを撫でながら、私はエスカレーターに乗っていた。快晴の朝、駅の改札に向かうところだった。気持ちの良い朝であった。電車に乗り込むとき、私は例の作家ともう一人の女性と一緒だった。緩やかにうねる茶色い長い髪を日に透かした背の低い彼女もまた、彼の作品のモデルであった。彼女は白いスカートを履いていた。

「すぐ買って読むね」と私は彼に声をかけた。背が高く細身の彼は、白いシャツにグレーのキャスケットを被っていた。「慌てなくていいよ」と彼は言った。そして、でも早く読みたいのだと笑って言う私に彼はキスをしたのである。その感触が今も生々しく残っている。柔らかくて、温かかった。心臓の少し下、みぞおちの少し上のあたりがふわっと暖かくなって、全身を何か柔らかいものでくるまれたような気分だった。たったその一瞬、懐かしい気持ちになった。彼の明るい茶色の目は優しかった。ああ、私は彼のことを知っている。彼は私の引き出しの住人だ。久しぶり。直感だった。あの一瞬、私は私の内側に戻ったのだ。

私は電車を降りた。降りた駅もまた明るく、コンクリートの柱と白く塗られた梁の間から燦々と日が降り注いでいた。作家の彼とモデルの彼女は、どうやらさっき電車に乗ったままどこかへ行ってっしまったらしい。ここから先は私一人である。彼は慌てなくていいと言っていたが、私はまっすぐ本屋へと向かった。店頭にも大きく『水色』のポスターが貼ってあった。棚に並んだ水色の背表紙を手にとって、パラパラとめくりながら講堂に向かった。水色は短編集だった。『やっぱり水色が好き』は収録されていなかった。

 

小さい頃の夢は、作家だった。

今私は、『やっぱり水色が好き』が読みたくて仕方がないのである。

じんじのおしごと

人事。

エース級の社員が配属される、花形部署である。営業と並ぶ双璧だ。大企業なら、人事に配属されたらエリートコースだと思って良い。営業は何人いてもいいが、人事になれる人数は絞られる。一般的にはコストセンターなのだ。そんな管理部門であるが故にともすれば日陰者扱いされがちだが、人事は企業の影の支配者である。なぜなら、会社は人でできているからだ。どんな人を入れ、どのように人を育て、どのように配置し、目的をどう成すか。人事とはすなわち経営である。

と、偉そうに書いてはみるものの、私が名前の上に小さく「人事」と書かれた名刺を手に入れたとき、当の本人にその自覚は皆無であった。それまで1日500人以上を相手に働く空飛ぶ接客業界の人間だった私は、「誰かの幸せのために働くなら、最後まで相手の顔を見続けられる仕事がしたい」と思っていた。ただそれだけだったのである。

 

紆余曲折を経て飛び込んだベンチャー。会社初のコーポレート専任。そして、未経験人事。仕事というものは、いつもそうだ。どんな花形だろうが、どんなキラキラ職だろうが、自分がどんなに優秀だろうが、苦しい時は苦しいのである。悲しい時は悲しく、辛い時は辛いのである。

 

 

 

私が一番、苦しかった時の話を書こうと思う。

 

 

多分、どこの会社にもいるのだと思う。


ある日突然、「飛ぶ」人がいる。

 

飛んだ人の回収にいくのは、最近はもっぱら私の仕事である。そして往々の場合、回収できるのは、退職届だけである。入社して丸2年、私が書いた求人に何かしらの期待を掛けて入って来た人が、潰れて辞めていく姿を何回も見送った。いつも、何度経験しても、合わなかっただけ、早く別れた方がお互いの幸せ、と自分を納得させるのに必死になる。

 

初めて私が退職処理をしたのは2015年の12月、新卒1年目の社員の手続きだった。しばらく私の相棒として仕事を手伝ってくれていた業務委託の人が契約満了で辞めたすぐ後である。退職が決まったことを告げられ、すぐに退職手続きのやり方を調べた。ハローワーク離職票をもらいに行った。カウンターで「5部ぐらいください」と声をかけると、威勢のいいおばちゃん担当者から「そんなので足りるわけないでしょ」とばかりに50部ぐらいを押し付けられ、私はその分厚い束をおとなしく受け取った。その束はずっしりと重かった。突っ込んだカバンの肩紐が食い込んで痛い。これを使い切る日が来る?そんなバカな。

はんこを押しに彼女がオフィスにやってきたとき、私は笑顔だった。よかった、結構元気そうだ。さよならぐらいは笑顔でしたい。一回だけ小さく背中を曲げて「ありがとうございました」と告げ、彼女は会社を出た。私は「元気でねー」と気の抜けた返事をしながら見送った。2015年の年末である。

 

さて、年が明け、仕事初めの次の日のそのまた次の日ぐらい、私は職場の最寄駅に降り立つことができなかった。いつも通りに起き、いつも通りの電車に乗っていた。ドアが開いたら、つり革から手を離して5歩歩けば出られるのに。「あれ、」と思いながら、体が動かなかった。年始早々、ひどい出だしだ。

そのまま、一駅過ぎ、二駅過ぎ、電車は空港に着いた。終点である。皮肉にも、前職を象徴するような場所であった。「そうか、ここから飛行機に乗れるのか」とふと思って電車を降りた。5ヶ月ぶりのその場所は変わっていなかった。そのまま、展望台にむかった。足取りは軽かった。PAX INTRANTIBVS SALVS EXEVNTIBVS(訪れる人に安らぎを、去り行く人にしあわせを)。空港はロマンのかたまりだ。

 

あまり意識されることがないようだが、飛行機と空港にもラッシュアワーがある。見下ろす滑走路の手前には、テイクオフクリアランスを待つ飛行機が列をなしていた。1機、また1機と飛んでいく。時速300キロに達して、ふわっと機首が持ち上がる。ぐん、と角度をつけて、機体が力技で重力を振り切る。そのまま高く高く伸び上がって西へ東へ旋回する、高度3万ft、どこまでいくんだろう、伊丹かな、福岡かな、NYかな。ぼうっと眺めていただけだったのに、気付くと私は泣いていた。何が悲しいのか何が辛いのか全くわからなかった。でも大泣きしていた。ガチガチに固まっていた背中が解けて、胸の中で膨れ上がって押さえつけられてギュウッと圧縮されてパンパンになっていたものが、堰を切ったように溢れ出したらしい。たっぷり30分、飛び立つ飛行機を見送りながら、私は声をあげるわけでもなく延々ぽろぽろと泣いていた。

まるで汗がひくようにしてすうっと頰が乾いた頃、時計は9時半を指していた。定時まであと30分ある。(そう、当時の私は妙に出社が早かったのである。)お腹を壊してちょっと遅刻する、と上司に電話しようとして辞めた。相棒が辞めて、どうせオフィスには自分しかいないのだ。大丈夫、昨晩のうちに溜まりに溜まっているはずのメールに返信するのは電車の中でもできる。

 

尾翼を青く染めたB777-200が滑走路に入ってきた。滑走路手前の渋滞は大分落ち着いていた。バランスの良い翼を伸びやかに広げた「トリプル」は、鉄の塊とは思えないぐらい軽やかに飛びあがった。旋回してターミナルの向こうに消えてゆく飛行機に心の中で小さく手を振って、私は展望台を降りることを決めた。

 

オフィスに着いたのは10時を少し回った頃であった。さあ、やることは山積みだ。そんなふうにして、飛行機を見送りながら泣いたことなどまるで夢だったかのように、何事もなく1日が過ぎ、1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、いつの間にやら1年と少しが過ぎていた。

 

私の仕事は、いつも無力感と裏表になっている。苦しむ相手を励ますことしかできない。私には直接的な原因を取り除くことができない。人が潰れてゆくその様を指を咥えて見ている自分が嫌で嫌で仕方なかった。

 

でももしかしたら、人事の仕事とはそういうものなのかもしれない、とも思う。採ることも育てることも仕組み作りも、人の人生ひとつを左右する仕事だ。なんて恐ろしい仕事だろう。優しさだけじゃやっていけない。非情でなければならない。それでも笑顔でいなければいけない。本当に優秀な人事は、もしかしたら、人間じゃないのかもしれない。もしかしたらこれは、笑顔の仮面を貼り付けたサイボーグに向いている仕事なんじゃないか。

これはそんな仕事だ。そんな仕事だが、人の幸せを全力で祈ることができる仕事でもある。そして人の幸せを祈ることは、サイボーグにはできない。そして私は人間である。しあわせになれ。しあわせになれ。私はいつも、呪文のようにして唱えている。