はこがい。

ハリボー大人買いしたい。

朝帰りの美学

 冬の朝ふかふかのお布団にくるまって二度寝を決め込むのと同じぐらい、夜明かしが好きだ。夜遊びではなく、夜明かし。

 家で映画のDVDを見ながらワインのボトルを空け続けて気付いたら空が白んでいたりとか、前の晩からバーでちびちび飲んで朝の4時過ぎにお店を出たりとか、同窓会の2次会3次会のカラオケで騒いだ後とかでもいい。一緒に夜を過ごして、「空、白んでるね」なんて言い合える相手がいれば尚良い。駅入り口のシャッター開きたて寝ぼけ眼のコンコースを抜け、項垂れた頭もまばらな下りの始発に乗り込み、窓ガラスにまだはっきりと映るお疲れ顔の自分をぼおっと見ながら「いい夜だったなぁ」なんて思えたら最高だ。

 

 要するに、私は夜明け頃が好きなのである。夜が眠りにつき始め朝がまだ夢うつつでいる、東京の街の、誰も目覚めていないあのたった一瞬が大好きなのである。冒頭に述べたように私は寝汚い人間だから、普通に夜寝てしまうと、よっぽどのことがない限りその夜明けにお目にかかることができない。だからお酒をお供に夜を明かす。

 

 お気に入りの夜明けの過ごし方はふたつ。

 ひとつは、早く起きてコーヒーを淹れて新聞を読んで、いつもより早く出かけてまだ人通りの少ない街道を抜け、誰もいないオフィスに一番乗りで乗り込むデキ女然とした過ごし方。あとは、夜明かしの後まだ静かな街を思いっきり散歩して、お日様が完全に昇りきる前に家に帰り、途中のコンビニで買ったサラダとかパンとかそういう朝食っぽいものを全部まとめて冷蔵庫に突っ込んで、化粧だけ落としてふかふかの布団にダイブして昼まで寝る暮らしである。どちらも、ポイントは夜明けの街をひとり闊歩することだ。そして繰り返すようだが、寝汚い上の酒好きの私はだいたい後者で過ごしている。

 

 さて、はっきり言って、アラサーにオールはきつい。体力的にはまだ大丈夫でもオール後はお肌が悲鳴を上げている。帰宅後鏡を覗けば、冬の始発電車の窓ガラスなんて比じゃないぐらいはっきりと、ゴワゴワがさがさになった自分の肌が目に入る。パックしなきゃ、と思いながらも襲い来る眠気と倦怠感に負け「とりあえず化粧は落とした」という達成感を免罪符に布団に潜り込み、私の肌はまた一段、老化へ続く階段を踏みしめてゆく。明け方、高田馬場カラ館の前にたむろしている女子大生との差は歴然である。肌のハリが違う。まだ薄暗くてよかった、赤の他人のぱっと見じゃこの肌のキメの差はわかるまい。ほんの数年前は私もそちら側の人間だったのに。美肌で有名だったのに。悔しい。オール後の起床時刻も年々遅くなっている。これが歳か、歳なのか。カラ館前の女子大生よ、お前にそばかすが増える呪いをかけてやる。えい。えいえい。えいえいえい。そう念じてはみるものの、ハーマイオニーでもエマ・ワトソンでもない私には彼女の顔にそばかすが増え続ける呪いをかけることは叶わず、結局おとなしく帰るしか術がないのであった。

 

 今の私は多分、いろいろな曲がり角を迎えている。昔から老けて見られる方ではあったけれど、それでも「私、ぴちぴちですから!」と言い返すにはなんとなく自信がなくて、なんとなく憚られるようになった。夜明けの迎え方に固執し始めたのはそのせいだろうか。だらだらと朝を迎えて昇りきったお日様の下をげっそり顔で歩き、電車もバスも駅も店も人も完全に目が覚めた街を闊歩する休日通勤のおじさんやこれからデートのお姉さんを横目に駅から家までの3kmをタクシーに乗っちゃうなんてダサい。ダサすぎる。

 言っておくが、いい大人の女が目の下に大熊連れて朝帰りだなんて、という話ではない。大人には大人の夜と朝があるよね、という話である。正しくは、「大人の私には大人の私の夜と朝がある。そして多分あなたにもあなたの夜と朝がある」という話。そしておそらく、それが私の美学というやつなのだ。

 

 私にとって、夜の終着点は夜明けであり、朝ではなく、夜をコンプリートするには夜中でも朝でもなく夜明けただその一点を目指しそしてそこに着地しなければならない。早すぎても、遅すぎても、だめ。逆に、どんなに化粧が崩れていても、どんなにひどい夜だったとしても、そこをバシッと決めることができたら私は私として一本通したという自信が持てる。仮に深層心理が「みっともない自分をお天道様に晒したくない」だったとしても、ここはよしとしよう。ここを決めさえすればパーフェクトな自分でいられるのだから。朝帰りの美学、「空が白んでから日の出までの間に帰る」。

 

 

 ついでに、6時前に帰宅したら10時ごろ起きてシャワーを浴びて軽く掃除して、ぼんやりしながらスタバのラテでも飲めたら、それだけでその日はパーフェクトだ。